没後 200 年の時を越えて
塙 保己一 正装座像
源氏物語を講義している塙保己一
塙保己一は、江戸時代の中期~後期(1746 年~1821 年)に活躍した盲目の学者です。現在の埼玉県本庄市児玉町の農家の長男として生まれました。幼い頃からあまり体が丈夫でなく、両親は保己一のことをとても気にかけていました。5 歳の時、病魔に襲われ、母・きよは保己一を背負い、片道 8 キロの道のりを一日も欠かさず、群馬県藤岡市の名医・桐淵貞賀医師のもとに通い続けました。しかし 7 歳の時、完全に視力を失いました。きよは、日頃の無理がたたり、家族の必死の看病にもかかわらず、保己一と弟の卯右衛門を残し、この世を去りました。保己一 12 歳の時でした。この頃、保己一の家に出入りしていたという絹商人から、こんな話を聞きました。「江戸では『太平記』という書物を暗誦して名調子で読み聞かせる《太平記読み》という話芸を生業にしている人たちがいる。大した人気で、中には方々の大名屋敷や旗本屋敷に出入りし、立派に暮らしている人たちがいる」寺の和尚さんに教えてもらった『太平記』と聞いて、学問好きな保己一は、居ても立ってもいられなくなりました。「よーし、江戸に出て学問で身を立てよう!」保己一は、耳にしたことは全て記憶してしまうほど抜群の記憶力の持ち主でした。保己一が憧れたこの《太平記読み》というのは、今日の講談の起源ともいわれています。
塙保己一とヘレン・ケラー
ヘレン・ケラー来館(1937.4.26)
生きた時代も異なり、日本からは地球の裏側とも言えるアメリカの片田舎に育ったヘレン・ケラーはどうして塙保己一のことを知っていたのでしょうか。
ましてや、その人物を人生の目標として尊敬していたというのです。
今から 140 年以上も前のことで、日本は明治時代。ヘレンは母から保己一のことを繰り返し話してもらっていたといいます。その母はいったい誰から?
「奇跡の人」で知られるヘレン・ケラーの物語は、偉人伝記、舞台や映画等を通して、多くの人々に知られています。重度障害の少女が、家庭教師・サリバン先生によって、尊い一人の人間に成長していく感動的なストーリーです。しかし、ヘレンにはサリバン先生だけでなく、もう一人忘れられない先生がいました。その名はアレクサンダー・グラハム・ベル。電話を発明したことで有名なベル博士です。
発明家として知られる博士は、実は、聴覚障害教育が専門の教育者であり、学者でした。電話の発明によって手に入れた巨額の富も全て障害児教育につぎ込んだと言われています。ヘレンの両親は、目が見えないだけでなく、耳も聞こえず話すこともできない娘に、どうにかして人並みの教育を受けさせたいと考えました。そして最初に相談にのってもらったのが、ベル博士でした。それ以来、家族ぐるみの付き合いが始まりました。サリバン先生がヘレンの家庭教師になるきっかけをつくったのもこのベル博士でした。
明治 8 年(1875)、日本の文部省(現文科省)からアメリカに派遣された留学生の中に、伊沢修二という人がいました。のちに、文部省で教科書編集の責任者となり、また、東京盲唖学校の校長を務めた人物です。アメリカ・マサチュセッツ州ブリッジウォーター教育大学に入学して間もなく、ベル博士から聴覚障害教育について教えを受けました。この子弟関係は一生続き、ベル博士が電話を発明し最初に通話実験した相手は、伊沢だったと言われています。また、伊沢を通して博士は、日本という国に特別な関心をもったのでしょう。明治 31 年(1898)には、観光を兼ねて教え子で聴覚障害者でもあった夫人を同伴して、日本を訪問しました。そして各地で聴覚障害教育について講演したのです。その時、通訳を務めたのは教え子の伊沢でした。ベル博士は、父親とともにアメリカに移民してきたイギリス人。故郷イギリスを代表する大詩人・ジョン・ミルトンは、中途失明したあとも、逆境の中で詩作を続けました。そして『失楽園』等多くの名作が誕生したのです。
ミルトンの詩は多くの人たちに愛読され、イギリスだけでなく世界中の人々から盲偉人の代表として尊敬されています。ミルトンの話をベル博士から聞かされた伊沢は、日本にも滝沢馬琴という物語作家がいたことを話しました。
馬琴は晩年には失明してしまったのですが、その後は息子の無学な妻に文字を教えながら口述筆記をさせ、28 年もかけて『南総里見八犬伝』等の大傑作を完成させたのです。そして、日本にはもっとスケールの大きな文化的事業を成し遂げた全盲の大学者・塙保己一がいたことを、誇らしげに語ったのでした。
目の見える学者たちでさえ手のつけられなかった困難な事業を、全く文字の読めない盲人が成し遂げたのです。障害児教育に一生を捧げたベル博士は、塙保己一に興味をもち、関心を寄せました。ベル博士は、目・耳・口が不自由な重度障害者であるヘレンをもって悲観に暮れている母親に、この日本の盲学者の話をして励ましました。折に触れ、母親はベル博士から聞いた保己一の話を繰り返しヘレンに聞かせたのでした。伊沢は留学から戻ると、文部省で教科書の編集責任者となり、尋常小学校の教科書で、改めて日本の偉人として塙保己一を取り上げたのです。ヘレンは日本のこの盲目の大学者のことを、直接ベル博士からも聞いていたことでしょう。
こうしてヘレンは、くじけそうになった時も、塙保己一のことを胸に、学問に励むことができたのです。保己一もヘレンも、苛酷な人生であったにもかかわらず、決して将来への夢と生きる希望を捨てませんでした。一見、光と音を絶たれるという厳しい制約のもとで人生を送ったように思えますが、実際には、心の目でものを見つめ本質を見抜き、心の耳で聞き、自分自身を見失うことなく、人一倍広い世界を思うままに羽ばたいていて、喜びと感謝に満ちたものでした。
今、なぜ塙保己一なのか―――― 現代に通じる「希望」「生きる力」
塙保己一を紹介する書籍の数々
塙保己一の功績を伝える紙芝居講演
保己一が自殺未遂事件を起こしたのは、今なら中学 3 年生の時のこと。幼くして光を失い、追い打ちをかけるように、最愛の母を亡くしました。寂しさと将来への焦り・・・。そんな中で「江戸に出ればどうにかなる」夢を抱いて大都会へ向かったのです。しかし世間知らずの盲目な保己一にとって、江戸での生活はつらく厳しいものでした。そしてついに挫折。繰り返し自分の身に起きる不幸を嘆き、前途を悲観したのです。しかし、自暴自棄ともいえる生活も、この自殺未遂事件をきっかけに 180 度変わりました。劣等感に苛まれ、俯いて生きてきたそれまでの人生に別れを告げ、喜びのうちに上を向いて歩み始めたのです。保己一の気持ちをそうさせたものは、いったい何だったのでしょうか。
夢と希望を見つけられれば、人は誰でも精神的に自由を謳歌し、勇気をもって生きてゆけるのです。現在最大の社会問題は何かと聞かれれば、心の問題、教育の問題があげられます。虐め、不登校、自殺、家庭内暴力等々、数えればきりがありません。他の人の心の痛みを感じないだけでなく、自分の命さえ粗末にするかのような、そんな投げやりとも思えるようなことが多くあります。家族の心労は言うまでもありませんが、一番苦しんでいるのは本人たちなのです。今、必要とされるのは本当の意味での「生きる力」。では「生きる力」とはどんな力なのでしょうか。そういった意味でも、塙保己一の生涯、生き様から一人でも多くの人たちに、「生きることの素晴らしさ」「命の尊さ」を学び、「生きる力」を身につけていただくヒントになればと思います。
日本の社会が抱える多くの課題のみならず、混迷を深めた世界中の問題解決への糸口のひとつでも見つかるのではないかと期待します。